正義という宗教

役立つ記事

僕は最近で言うところの正論があまり好きではありません。
喧嘩をするときに正論を相手に言ってしまっていませんか?

改善を求めるならば、相手と一緒に相談したら良いと思うのです。
相手にできないところがあれば、解決策を一緒に相談したら良いわけです。

当たり前のこと、正論を言って、相手を責めるのは違うと思います。
そして正論を言っている人は「自分が正しい、正義だ」と思っている傾向があります。

正しいこと、善であることは物事を解決するのでしょうか?

正義は誰がために?

一旦ここで、善悪について考えてみましょう。

悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義はどうでしょうか?
正義という大義名分は想像以上に厄介です。

正義という大義名分で正論を言う行為を僕は疑問視しています。

確かに本人は「良い」と思っているから言うわけです。
良いことならば言っても良いと思っている人が多いということです。

本当に良いものであっても相手にとってはどうだろうか?
「内心でどう思っていても強制力をもって全員が良いことをする」のが本当に良いのだろうか?
これでは強制労働ではありませんか?
洗脳ではありませんか?

また、「良い」と思っていること、「正義」だったり「正論」はそれをもって相手を攻撃していい大義名分になり得るのです。

今の時代の話ではなく、昔から善悪によって人々はコントロールされている節があります。

大儀名分がイジメを産み出す

例を挙げてみますね。
あなたがムシャクシャしていたとします。

誰かに八つ当たりしたくなったとき、なるべく反撃はされたくないわけです。
正論なら「良いことを言っている」から反撃を許さないわけです。

ムシャクシャした腹いせに、インターネットで適当な相手を見つけて正論をぶつけるというストレス解消ができるわけです。
相手からしたら、少し間違えただけかもしれませんし、試行錯誤中かもしれません。
でもどこの誰かも知らない人からいきなり正論をぶつけられてしまいます。
そんな人が寄ってたかって個人を攻撃する場面がSNSでは散見されます。

そして大儀名分に歯止めはありませんから、集団リンチで追い込むようなことがあるのです。

ということは、世論においても多数派が少数派を「みんなそうしてる」と責め立てることもできてしまうことになります。顔の見えない「みんな」が正しいと信じてしまっているから、それが正義だという勘違いが起りやすいのです。

「▶みんなという宗教」も合わせて読んでみてください。

正論という暴力

殆どの人は現代社会で生きている中で多くのストレスを抱えていると思います。
でも良い大人ですから、体裁を気にして合法的に八つ当たりをしようとして正論をぶつけたいのです。
では、ぶつけられたほうは、どうでしょうか?

たとえいかに正しかったとしても、その通りにしたいとは思えませんよね。
集団から「何故こうしないんだ」「だからお前はダメなんだ」「そうだそうだ」と言われて、誰が行動を変えようとするのでしょうか?

「されて嫌だった」記憶しか残りません。
そして、嫌だと訴えたら「逆切れするな!」と更に畳みかけられます。
お手上げです。もう関わりたくないですよね。

世間を見てみると意外とそういうことが多いのです。

正論は相手を変えません。ただの言葉による暴力になります。

相手を言葉で殴ってあなたがスッキリするだけです。
もしかしたらスッキリしないことのほうが多いかもしれません。

「これだけ言っているのに何故変えてくれないの?」
と、余計に不満を募らせるかもしれませんね。

相手を変えるにはどうしたら?

正論だけで相手をコントロールできると思わないでください。

良くも悪くも相手はあなたに反応します。

発想が逆です。

「相手を変えるには自分から」と言う言葉を聞いたことがありませんか?

あなたが普段からどんな言葉を使って、どんな風にしているかを相手は見ます。
自分ならどういう言葉に反応して、どういう行動をとるのか考えてみても良いかもしれません。

こう言われたら協力しようと思ったり、問題解決に向けて動こうと思うにはどういう風に声をかけて欲しいのか。

それを探ってみるほうが建設的ではありませんか。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
何かの参考になれば幸いです。